やしき たかじん(1949年10月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、司会者。大阪市西成区出身。本名は家鋪 隆仁(読みは同じ)。血液型はO型。主に関西ローカルのテレビ番組に出演している。愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など。[1]
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)の代表取締役を務めている。この場合における名義は漢字(本名)表記である。
大阪を盛り上げるために発足された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン。
[編集] 人物・経歴
[編集] デビューまで
四人兄弟の次男として生まれる。少年時代はリトルリーグのジュニアホークスに所属していた。
成南中学校卒業。桃山学院高等学校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院大学経済学部に内部進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌い(後述)を克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移り住む。
その後、龍谷大学経済学部へ入学するも中退。同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行うようになる。当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。
[編集] 歌手活動
1971年に京都レコード(2002年に日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ退廃的、「現在の日本国において娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となる。
1973年には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。その後1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。
1977年に宝塚史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、宝塚が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時宝塚の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。男性として史上初めて宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となる。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-� ��見る男のために-』の3曲目)。
さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で「生涯最大の汚点」と語っている。またこの時の経験がトラウマとなり、その後ドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる(自身が出演の番組(冠番組・ゲスト問わず)でこれを流すことはタブーであり、冠番組で流せば番組をその日をもって終了させると公言している。但し『新・木枯し紋次郎』単独での地方局等での再放送は拒んでいない)。これを機に猪俣とは親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」などを歌うようになる。
1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分ほどある長い歌でグランプリを獲得(本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったという)。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。
1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオ『セイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。当初は相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった(この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」と評していた。一方、秋元は「たかじんさんは独特のこだわりがあるから、たかじんさんを納得させる歌詞を書くのは至難の業」と言って� �る)。のちに、たかじんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」と、ネタとして度々話している。この当時大阪のほかに東京・仙台・名古屋などにもレギュラー番組を持っており、雑誌「明星」に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていた。
2009年12月には、その秋元康が作詞、小室哲哉が作曲という形で新曲を発表する予定があることを明かし、翌2010年11月に件の新曲『その時の空』(OSAKAあかるクラブテーマ曲)が発売された。
前述の秋元のコメントの通りたかじんの歌詞へのこだわりが強く、かつて多くたかじんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎が新曲作りに取り組む際には、鹿がたかじんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったという。代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である康珍化から持ち込まれた『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!」(康自身は静岡の出身で大阪のことは詳しくない)と自身の曲として歌うことを断っている。そのため、この曲は大上留利子の持ち歌となって世に出てしまい前述の秋元とのエピソードと同じ状況に至ってしまった。このことから、作家泣かせとして業界で有名である。
1981年には谷村新司が作詞作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作)の主題歌『砂の十字架』が13万枚[2]のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座し、鳴かず飛ばずだったたかじんにレコードを出させて下さいと直訴。その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、歌詞が気に入らなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラストが描かれていたことにたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、結局そのまま発売されてしまう。このように自分の意向 が蔑ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いていた。しかし後年になり岡田斗司夫から「今、歌えば逆に新鮮かも」との提案に、少し色気を出していた。
1982年に大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍し『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いてゆくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手た� �じんのスタイルを築くこととなった)。本人いわく「歌手一本で食えるようになるまで二十年はかかった」という。
この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。
1992年にポリスターに移籍し『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚[2]の自己最高のヒットとなり、翌1994年全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。なおポリスター移籍後、多くの楽曲の作詞を及川眠子(和歌山出身)が担当している。
1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業している。2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで歌手活動を再開。2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは活動再開を喜んだ。なお2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降一切のコンサート活動を休止している。
2003年『やっぱ好きやねん』がバックに流れ川藤幸三がCM出演した、『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている『やっぱ好きやねん』『生まれる前から好きやった』『なめとんか』『大阪恋物語』『あんた』)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進していることも相まって15万枚の売り上げを記録。
2007年6月9日に行なわれたMBSアナウンサー八木早希の結婚式で「My Memory」「My Way」を披露した(この結婚披露宴はたかじんがプロデュースしている)。
2007年11月16日にやしきたかじん携帯公式HP「発禁!?たかじん新聞」の「熱唱!!やしきたかじん」というコーナーで、本格的な歌手活動に向けてのハワイでのトレーニングの模様を収めた映像を公開するという形で歌手活動を再開した(歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」。またダイジェストで「エゴイズム」「なめとんか」も歌っている)。
2008年5月に公式ホームページをリニューアルし、プラチナムメンバーを対象に「熱唱!!やしきたかじん」をはじめとするたかじんのプライベートやたかじんのオススメ通販情報などを動画で提供するサービスやチケットの優先予約などのサービスを開始する(「熱唱!!やしきたかじん」で歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」「大阪恋物語」「生まれる前から好きやった」「サン・トワ・マミー」「雪が降る」「恋」「ついてくよ」)。
2008年8月29日に読売テレビの開局50周年記念として大阪城ホールで行なわれたやしきたかじん自らプロデュースする音楽イベントkoi-conにてステージで6年ぶりに歌った。「惚れた弱み」「未練〜STILL〜」「My memory」「大阪恋物語」「東京」「夢見る男のために」「やっぱ好きやねん」「明日になれば」を歌った。(「東京」「やっぱ好きやねん」は松山千春とのデュエット)このイベントの中で「もしかしたらこれ(koi-con)が最後(の舞台)かもしれない」という発言をしているが、同時に歌うかもしれないということをほのめかした。
2009年に7年ぶりのコンサートツアー(8/30岸和田~12/14京都 全国10箇所・12公演)ディナーショー(12月20日帝国ホテル大阪)を行う
[編集] たかじんのコンサート
たかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめであくまで歌とトークを重視したシンプルなスタイルである。3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある(たとえば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円 広志を迎えたときなどには、漫才に熱が入りすぎた(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。
コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い、生死をさまよったことがある。客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。
コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名であるが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず泣かず飛ばずだったころどのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果であるという。
[編集] たかじんバンド
初期の「フライング・リバティー」に始まり、現在の「アンビエンス」<1994年春にファンクラブの募集でバンド名が決定した。正式には英語のambienceの発音記号がバンド名。Pf/Key:土井淳(バンマス) Key:鈴木賢 G:近藤芳弘 B:小笹了水(2002年代役で福栄宏之が参加) Dr:浅川ジュン Sax/Flute:小梶博司(2001年から横山貴生)の6人に1995年秋〜1999年に当時たかじんの弟子であった佐々木清次Ag/Choが参加。>また、かつては、尾崎亜美(ピアノ)や河島英五(ギター)らが参加していた。
- 東京時代のバンド
- 「MAKITA BAND」B:牧田和男 G:岸卓巳・丸山ももたろう Dr:金原広行 KB:下山金太郎・大久保佳子・田代修二 SAX:春名正治
[編集] タレント活動
普段のしゃべる時のだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声[3]とのギャップがあまりにも違うため関西以外ではたかじんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていた。上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」と言った。
歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退したための処置)。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。