やしきたかじん - Wikipedia
やしき たかじん(1949年10月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、司会者。大阪市西成区出身。本名は家鋪 隆仁(読みは同じ)。血液型はO型。主に関西ローカルのテレビ番組に出演している。愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など。[1]
個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)の代表取締役を務めている。この場合における名義は漢字(本名)表記である。
大阪を盛り上げるために発足された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン。
[編集] 人物・経歴
[編集] デビューまで
四人兄弟の次男として生まれる。少年時代はリトルリーグのジュニアホークスに所属していた。
成南中学校卒業。桃山学院高等学校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHK『あなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院大学経済学部に内部進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌い(後述)を克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移り住む。
その後、龍谷大学経済学部へ入学するも中退。同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行うようになる。当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。
[編集] 歌手活動
1971年に京都レコード(2002年に日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ退廃的、「現在の日本国において娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止、廃盤となる。
1973年には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。その後1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。
1977年に宝塚史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、宝塚が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時宝塚の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。男性として史上初めて宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となる。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-� ��見る男のために-』の3曲目)。
さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で「生涯最大の汚点」と語っている。またこの時の経験がトラウマとなり、その後ドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる(自身が出演の番組(冠番組・ゲスト問わず)でこれを流すことはタブーであり、冠番組で流せば番組をその日をもって終了させると公言している。但し『新・木枯し紋次郎』単独での地方局等での再放送は拒んでいない)。これを機に猪俣とは親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋の塩辛」などを歌うようになる。
1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分ほどある長い歌でグランプリを獲得(本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったという)。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。
1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオ『セイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。当初は相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった(この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」と評していた。一方、秋元は「たかじんさんは独特のこだわりがあるから、たかじんさんを納得させる歌詞を書くのは至難の業」と言って� �る)。のちに、たかじんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」と、ネタとして度々話している。この当時大阪のほかに東京・仙台・名古屋などにもレギュラー番組を持っており、雑誌「明星」に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていた。
2009年12月には、その秋元康が作詞、小室哲哉が作曲という形で新曲を発表する予定があることを明かし、翌2010年11月に件の新曲『その時の空』(OSAKAあかるクラブテーマ曲)が発売された。
前述の秋元のコメントの通りたかじんの歌詞へのこだわりが強く、かつて多くたかじんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎が新曲作りに取り組む際には、鹿がたかじんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったという。代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である康珍化から持ち込まれた『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!」(康自身は静岡の出身で大阪のことは詳しくない)と自身の曲として歌うことを断っている。そのため、この曲は大上留利子の持ち歌となって世に出てしまい前述の秋元とのエピソードと同じ状況に至ってしまった。このことから、作家泣かせとして業界で有名である。
1981年には谷村新司が作詞作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作)の主題歌『砂の十字架』が13万枚[2]のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターがキングレコードの部長に涙ながらに土下座し、鳴かず飛ばずだったたかじんにレコードを出させて下さいと直訴。その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、歌詞が気に入らなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラストが描かれていたことにたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、結局そのまま発売されてしまう。このように自分の意向 が蔑ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いていた。しかし後年になり岡田斗司夫から「今、歌えば逆に新鮮かも」との提案に、少し色気を出していた。
1982年に大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍し『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いてゆくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手た� �じんのスタイルを築くこととなった)。本人いわく「歌手一本で食えるようになるまで二十年はかかった」という。
この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。
1992年にポリスターに移籍し『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚[2]の自己最高のヒットとなり、翌1994年全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。なおポリスター移籍後、多くの楽曲の作詞を及川眠子(和歌山出身)が担当している。
1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業している。2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで歌手活動を再開。2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは活動再開を喜んだ。なお2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降一切のコンサート活動を休止している。
2003年『やっぱ好きやねん』がバックに流れ川藤幸三がCM出演した、『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている『やっぱ好きやねん』『生まれる前から好きやった』『なめとんか』『大阪恋物語』『あんた』)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進していることも相まって15万枚の売り上げを記録。
2007年6月9日に行なわれたMBSアナウンサー八木早希の結婚式で「My Memory」「My Way」を披露した(この結婚披露宴はたかじんがプロデュースしている)。
2007年11月16日にやしきたかじん携帯公式HP「発禁!?たかじん新聞」の「熱唱!!やしきたかじん」というコーナーで、本格的な歌手活動に向けてのハワイでのトレーニングの模様を収めた映像を公開するという形で歌手活動を再開した(歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」。またダイジェストで「エゴイズム」「なめとんか」も歌っている)。
2008年5月に公式ホームページをリニューアルし、プラチナムメンバーを対象に「熱唱!!やしきたかじん」をはじめとするたかじんのプライベートやたかじんのオススメ通販情報などを動画で提供するサービスやチケットの優先予約などのサービスを開始する(「熱唱!!やしきたかじん」で歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」「大阪恋物語」「生まれる前から好きやった」「サン・トワ・マミー」「雪が降る」「恋」「ついてくよ」)。
2008年8月29日に読売テレビの開局50周年記念として大阪城ホールで行なわれたやしきたかじん自らプロデュースする音楽イベントkoi-conにてステージで6年ぶりに歌った。「惚れた弱み」「未練〜STILL〜」「My memory」「大阪恋物語」「東京」「夢見る男のために」「やっぱ好きやねん」「明日になれば」を歌った。(「東京」「やっぱ好きやねん」は松山千春とのデュエット)このイベントの中で「もしかしたらこれ(koi-con)が最後(の舞台)かもしれない」という発言をしているが、同時に歌うかもしれないということをほのめかした。
2009年に7年ぶりのコンサートツアー(8/30岸和田~12/14京都 全国10箇所・12公演)ディナーショー(12月20日帝国ホテル大阪)を行う
[編集] たかじんのコンサート
たかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめであくまで歌とトークを重視したシンプルなスタイルである。3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある(たとえば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円 広志を迎えたときなどには、漫才に熱が入りすぎた(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。
コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い、生死をさまよったことがある。客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。
コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名であるが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず泣かず飛ばずだったころどのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果であるという。
[編集] たかじんバンド
初期の「フライング・リバティー」
- 東京時代のバンド
- 「MAKITA BAND」B:牧田和男 G:岸卓巳・丸山ももたろう Dr:金原広行 KB:下山金太郎・大久保佳子・田代修二 SAX:春名正治
[編集] タレント活動
普段のしゃべる時のだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声[3]とのギャップがあまりにも違うため関西以外ではたかじんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていた。上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」と言った。
歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退したための処置)。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。
なぜそれ以上の年齢の女性は若い男性とデートか?
一時期桂雀々や2代目桂春蝶や『MBSヤングタウン』で共演した桂三枝のもとに付いたり、さまざまな名だたる上方芸人と交流を深め(特に雀々とは北新地の居酒屋「猫八」で出会って以来の付き合いで、かつては天満のマンションに一緒に住んでいた)、しゃべりや遊びの勉強をしていた事がある(祇園の弾き語り時代には、6代目笑福亭松鶴や藤山寛美にお茶屋遊びを教えられ、3代目桂米朝には大阪宗右衛門町の南地大和屋で遊びの基本を学んだ)。そのため、芸人以上に芸人としての意識が強いことから、若手に対して厳しい一面もあり、飲みに行く際には喫煙・飲酒をさせない程である。タカアンドトシ、博多華丸・大吉、サンドウィッチマン、波田陽区、はなわ、ヒロシ、世界のナベアツなどに太鼓判を押し、彼らを気に入ってい� ��模様。また、サンドウィッチマンの富澤たけしはたかじんのファン(歌手として)である。
1994年にアサヒビールの関西限定ビール「生一丁」のCMに出演。「あけまっせ」「これやがな」の台詞がうけ、同製品が爆発的なヒットとなる。
さらに1985年ABCラジオの昼ワイド番組『聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務める。この時、金曜日に円広志と行なっていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ「ABCエキスタ」での公開生放送で注目を浴びる。「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上に亘る内輪話が大人気となり、観客がスタジオに殺到。その人気ぶりを写真週刊誌フライデーが取材。「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴くほどのお化け番組」と紹介された。朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。『聞けば-』は1987年10月に終了するが、その直後にラジオ『サタデーたかじん 〜午後はイッキに〜』のパーソナリティー、さらに夕方のテレビ報道番組『ニュース・ウェーブ』のコメンテーターを務める。
放送禁止用語や放送局の出入り禁止や、名誉毀損(後述)も恐れないストレートな発言(友人であろうとも容赦なく批判する)で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている。 本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせ、現在もそれは変わらない。
読売テレビ製作の『たかじんnoばぁ〜』でも、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークが評判を呼んでキー局の日本テレビでも放送されるようになる。たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12 - 1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%を超え(関西地区)、読売テレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する事となった。この番組中に泥酔のため、たかじんの東京嫌い(後述)や、司会におけるスタイルを批判したゲストの立川談志に灰皿を投げつけ「気に入らんかったら帰れ」とスタジオから追い出し、犬猿の仲に発展したが、トミーズ雅に「放送できない」と止められた。また、内田裕也と安岡力也がゲストに来た際、内田が番組のお約束でもあったコントにも参加せず、番組途中で帰ったのにまったく怒らず、その後何事も無かったかのように力也とトークを続ける懐の深さもみせた。ただし内田が、たかじんのブラックリスト入りをしたのは言うまでもない。
1992年10月より、東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持つも、東京に嫌気が差し半年後に全て降板。特に後述するテレビ朝日『M10』における味の素事件は、テレビ関係者、視聴者ともにたかじんの行動に唖然としたことは言うまでも無い。また、この年は後述する『晴れ時々たかじん』における朝日放送でも局長の失言が原因で、結果としてたかじんは東西のテレビ朝日の系列局で激昂したことにより、テレビ朝日は勿論、東京のテレビ局及び朝日放送とは絶縁し、出演することがほとんどなくなってしまった。これ以降は、歌手活動と並行しながら関西ローカルで数本のレギュラーを持つようになる。とはいえ、1994年から2004年頃までは、親交のある明石家さんまや島田紳助などが司会の東京収録の番組にも義� ��でゲスト出演していた(『恋のから騒ぎ』、『開運!なんでも鑑定団』、『料理バンザイ!』など)が、やはり、東京キー局とそりが合わずトラブルを起こした。結果的に、1998年頃から2004年に『さんまのまんま』と『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演するまで、東京収録の番組には全く出演しなくなっていた。また1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めた。
1994年から自身が司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)が開始。さらに1998年には『たかじんONE MAN』(毎日放送)が始まる。この2つはテレビ番組や芸能人など主に業界に関する企画が中心で、番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例となっている。また、この視聴率予想の的中率が異常とも言える程の高さを誇っている。これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に10台前後のビデオデッキ(最近では1テラバイトのHDDデッキを6台購入したと『たかじんのそこまで言って委員会』で述べている)を買い求めて、テレビ番組の動向をたとえ本人が嫌いな番組であってもチェック(以前はチャンネルごとに録画していたが現在はジャンルごとに録画している)していて以来続いている、彼のネタのひとつである。なおアニメに関しては早送りしているとたかじん本人が『たかじんONEMAN』内で言っている。
これまで芸能関連の企画が多かったが、2002年、政治・経済などの時事問題をテーマにした特別番組『たかじんのそこまで言って委員会』を放送(翌2003年にはレギュラー化)。そして2004年には『ムハハnoたかじん』が開始、5年間守っていた「レギュラー2本」が倍増した(2011年1月以降はレギュラー3本)。理由について本人は「老後のため」とギャグでかわしている。
[編集] 家族
父の権三郎については(長期間絶縁状態にあったせいもあるが)極右思想の持ち主であったこと以外は一切公表しておらず、語りたくないと発言している。1987年2月23日付の朝日新聞のインタビューでは日新ステンレス(本社・大阪市、家鋪秀王社長、資本金5000万円、従業員約80人。いずれも倒産時)の社長で、父親と実兄が会社を経営していた事を明かしているが、同じく朝日新聞によると、その後日新ステンレスは自己破産している(負債総額は約105億円)。だが、高校時代に父の財布から金を盗もうとしたのがばれた時、顔の形が変わるほど殴られてしまい、それで盗みは悪い事だと自覚したという一面もある(そこまで言って委員会内での発言)。弟に関しては学校の校長をしていることも明かしている。
母の光子についても、言及はかなり少ないが、憎んでいるという[4]。その一方で、母親と顔がそっくりと言い[5]、「小学校のころ友達に『同じ顔の人が二人いると思ったらたかじん君とお母さんだった』と言われた」、「シャチハタ親子(シヤチハタネームで押したようにそっくりという意味)」などとも発言している。
過去に2度結婚しており、20代前半で別れた一人目の妻との間に一女がいる。離婚理由について「1人目は、風呂屋に行ったまま帰ってけぇへんねん」とギャグにしていた。2人目は「離婚届送ってきよった」と委員会で発言している。
[編集] 名前について
たかじんという名前は読みも含めて本名である。知人の住職に命名を依頼したが、それが隆仁(たかひと)であったため、父・権三郎が「天皇陛下の「仁(ひと)」を使うとは何事だ」と激怒し(避諱)、「仁」の読みを「ひと」から「じん」に変えて「隆仁(たかじん)」と命名したことによるものだと、たかじん本人がテレビ番組で語っている[要出典]。
「家鋪」はほとんど見かけない苗字であり、また名前の「隆仁」の読み方は「たかひと」が多い。たかじん本人は風邪を引いた時に病院に通い、待合室で看護師に「かしきさん」「いえしきさん」「いえほさん」「やっほーさん」「かほさん」「いえほこさん」などと言い間違われ、わざと気づかないふりをしていたという(『たかじん胸いっぱい』でのコメント及びコンサートでのトーク)。
[編集] 度重なる治療
幼少の頃、遊んでいた時にダーツの矢が左の眼球に刺さり、視力が低下。それもあって常に眼鏡姿であり、トレードマークとなっていた。2002年に後遺症の緑内障の影響より、ファッションのためだけでなく、常にサングラスをかけている。愛用しているサングラスはドルチェ&ガッバーナ。
2006年4月に、持病の腰痛(ヘルニア)治療のためレーザー手術を行い、さらに歯の治療や喉のポリープの治療も行った(表面を削った上で抗菌パネルを張ることでワイン焼けやヤニで歯が汚れないようにし、奥歯にインプラントを入れた)。
又、片目に白内障を患っており、手術を行ったことを2006年9月10日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、本人が明らかにしている(収録2日前の9月6日に手術したと述べている)。術後はスタジオが明るくて爽快と述べた。2007年11月には右目のみレーシックの手術を受け、翌月には左目外斜視の矯正手術を受けた。本人曰く「60歳迄に腹以外の肉体改造をする」とのこと。なお、日々の不摂生を補うための点滴にも定期的に通っている。
2012年1月31日には公式ウェブサイトで、初期の食道がん治療のため芸能活動を休止することを発表した[6][7]。
[編集] 本人の拘り・不祥事
[編集] 東京では絶対仕事をしない
上岡龍太郎と同じく大の東京嫌いのため、全国ネット(東京キー局)の番組での出演は非常に少ない[8] (なお、上岡は1987年から2000年の引退まで全国ネット番組には出演していた)。かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、また『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)もキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「関東には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」と言い(『そこまで言って委員会』の宮崎哲弥も同様に埼玉・千葉・神奈川では辞めないにしても、東京で放送したら辞めると宣言している)、在京キー局(関東)ではネットされていない(全国ネットではない)現状である。
東京の番組に出演しないのは前述の理由のほか、1992年10月より半年間、たかじんが東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組(『テレビ近未来研究所』・『M10』(いずれもテレビ番組)・『そこまで言うか! 熱血!正義の60分』(ラジオ番組))を持った際の番組スタッフとの確執が決定的な理由とされる。この時たかじんは、自分のやり方を否定する東京キー局や地方局のルールが気に入らず、プロデューサーやディレクターを殴り、恫喝し、時には土下座させ、ついには本番中に帰るなどのトラブルを起こした。また、ラジオ番組ではストレスなのか、生放送中に倒れて救急車で運ばれるということもあった。それ以前にも東京のテレビに出演した際に、利権やしがらみのために制約が多いことや、すぐ掌を返す体質や極端に横柄な態度に激怒し、暴力沙汰を起こし収録途中で幾度も帰っている。
しかし、『たかじん胸いっぱい』は10年以上独立UHF局でネットされており、2011年時点で埼玉県のテレビ埼玉で放送、かつてはtvkやとちぎテレビ、群馬テレビでも放送していた。この事は東京都民も視聴できる可能性があるものの、そこまでは反対していない(かつてGAORAで3ヵ月遅れで放送された『たかじんONE MAN』もケーブルテレビを介してなら視聴可能だった)。東京都のUHF局のTOKYO MXについては「東京唯一の独立UHF局だけれども東京のテレビ局だから」だけでキー局扱いにし、毛嫌いしており(ただしその他の在京キー局ほどではない)、UHF局のTOKYO MXのみ、たかじんの出演番組のネット放送は開局以来全くされていない。千葉テレビでは『たかじんnoばぁ〜』の復活特番第1弾でネットの実績がある。
東京キー局では放送できない内容を多く話し、オンエアではほとんどカットされている。これについてたかじんは常に不満を述べており、時には収録中にクレームをつける事もある。関西・関東以外の地方局でも放送できないと判断される事もある。関西(西日本)と関東(東日本)でたかじんの印象が違うのはこのためである。このような事から、在阪局制作のレギュラー番組でも基本的にたかじんは東京キー局や地方局へのネットを断わり、放送地域が拡大することを不服に思う[9]。実際、1998年3月の『たかじんnoどォ!』(読売テレビ)の終了以降、たかじんのレギュラー番組は関東地区では独立UHF局でのみ放送し、キー局では放送されていない。
たかじんの出演する番組は1998年以降、静岡県以東の東日本の放送局では放送されない時期もあったが、現在では、『そこまで言って委員会』が関東、福島、岩手、青森、山形、福井、沖縄[10] 以外の全国各地で放送されることになった。特に北海道、富山県、中京圏、広島県、愛媛県では現在出演中の全番組を放送していることもあり、関東以外での知名度は上がっている。関東地方でのマスコミ露出が少なかった1999年頃には一部で死亡説が流れた事がある。現在でも、普段のレギュラー番組で、47都道府県関係なく、放送禁止用語が飛び交う内容で身内を含んで容赦なく批判しているが、2005年1月1日付朝日新聞東京本社版別刷り特集にインタビューが掲載されている。一方で、「くるダス」(アスコム)のインタビューでテレビ東京を応援しており、『ペット大集合!ポチたま』と『新春ワイド時代劇』(両番組ともテレビ東京)に太鼓判を押している。
江頭2:50が自身の大便を投擲(前後の経緯、時期不明)、その排泄物がやしきの顔面に付着。江頭に対し再遭遇する危惧と恐怖感で関東圏に立ち入る事を警戒。
2009年12月12日放送の『たかじん胸いっぱい』で、当番組が放送されていない秋田県、東京都、山口県の一般人に『たかじん胸いっぱい』を見てもらい(現在は秋田県でも「たかじん胸いっぱい」が放送されている。山口県でもその後放送されていたが2011年9月で打ち切りとなった。)、番組自体の感想に関するアンケートをとったところ、「東京では受け入れられない」「月亭八光は東京で通用するだろうが、大阪色の強いたかじんは無理だろう」という意見を紹介。その際、たかじんは「うん、(番組及び自身が)売れへん。」「言い方によったら売れへんと言えるけど、俺が東京に入ったらんねん。昔は東京の番組に出てくださいって頭下げられたことあってんで。こんなに心を解放する人の気持ちが温かい大阪を退けて東京に入るア ホがどこにおんねん。」と発言。
妻の浮気を見て夫をコールド妻
2004年には親交のある細木数子たっての希望でフジテレビ系の全国ネットのテレビ番組『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演。その3年半後、2008年7月21日の読売テレビ制作・日本テレビ系の全国ネット『情報ライブ ミヤネ屋』に仕事復帰したばかりの親友の歌手・松山千春との単独インタビューのインタビュアーを務めた(後述)。2009年12月14日放送の『SMAP×SMAP』(フジテレビ・関西テレビ系)「ビストロSMAP」で宮根誠司がゲスト出演した際にVTRで出演。宮根に対して「宮根 お前がSMAP×SMAPのゲスト?100年早いわ、ドアホ!」と一喝した。あくる日の12月15日には『うたばん』(TBS系)のご当地名曲ソング特集で「やっぱ好きやねん」を歌っているVTRが流れた。たかじんがTBS制作の全国ネットの番組への登場は17年ぶり(MBS制作も含めれば1997年に終了した「たかじん・ナオコのシャべタリーノ」終了以来12年ぶり)。2010年5月17日放送の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)のコーナー「今聴きたい名曲!HEY!HEY!HEY!」ではケンドーコバヤシがゲスト出演の際に、「大阪」をテーマにした持ち込み企画で「やっぱ好きやねん」を取り上げ、同曲を歌うたかじんがVTRとして登場した。
2010年3月28日放送のテレビ朝日「超タイムショック」で、「"家鋪隆仁(たかじんの本名)"を何と読むか?」と問題が出て、さらに解答をおさらいの時に、たかじんが歌っている写真も出る。写真ながら、たかじんが久々にテレビ朝日制作から全国ネットで登場している。他にも東京のラジオ番組で「やっぱ好きやねん」が流れたり、ネプチューンの名倉潤が番組で、「やっぱ好きやねん」を熱唱したり、伊集院光がラジオ番組でたかじんの事をネタにしたことがあるが、これらに関して特に問題は起きていない。
2011年11月26日放送のフジテレビ『めちゃ×2イケてるッ!』にやべっち寿司のコーナーでゲスト出演し、久方ぶりに関東キー局に登場した。たかじんは持参したワイン片手に自らがカウンターに立ち、めちゃイケメンバーの岡村隆史、矢部浩之、加藤浩次、三中元克らを席に座らせて自らが大のめちゃイケファン(視聴率を毎週チェックしていると公言)であることを明かし、収録の2日前から東京入りしていたことなどを語った。放送中、矢部浩之も「たかじんnoばぁ~や!」と驚くほどかつての「たかじんnoばぁ~」を髣髴させファンを喜ばせた。
[編集] 在京局(一部地方局)への嫌悪感
在京キー局や(キー局の意向に追随する)一部地方局の首脳は当然ながらたかじんの態度を快く思っていない。筆頭がフジテレビ会長日枝久で、これによりフジは『たかじん胸いっぱい』の人権侵害事件や『発掘!あるある大事典II』の捏造事件を庇いだてなく報じていたが、それ以上にたかじんは東京キー局や一部地方局の首脳を「きちがい」「アホの頂点」「東京を嫌って何が悪い。文句あるんやったらかかってこい」と非難している。とはいえ、『たかじんONE MAN』で「俺が嫌っている都道府県は東京都だけや」と発言したことから、東京以外の首都圏の県を特に嫌っているわけではない。事実、前述したように東京の周辺ではたかじんの番組がネットされている。 しかし、上岡龍太郎や島田紳助と同様、和歌山県に対しても、TVなどで「近畿のお荷物」などと暴言や悪口を発言しており、吉本を中心とした関西芸人にこのような傾向が多いのも事実である。 在阪民放各局の首脳陣とは深いつながりがあり、自分の番組以外でもキャスティングや企画・編成にも関わる場合がある。
[編集] ブラックリストの存在
たかじんは嫌いな人物のブラックリストをもっており、たかじんの逆鱗にふれた人物は二度とキャスティングされなくなる。その傾向は、たかじん批判、大阪批判をした人物となる。しかし、場合によりけりで状況が変わる。このブラックリストが実在する事は、たかじん自身が公表しており、リストの実物を冠番組内で見せた事もある。在京局(ラジオ局も含む)のアナウンサーやNHKのアナウンサーは、フリーになった者も含め全員が載っているとされているというが、過去には『たかじんnoどォ!』ではみのもんた、『たかじん胸いっぱい』では古舘伊知郎、『ムハハnoたかじん』では小倉智昭(元テレビ東京)とそれぞれ共演し、他にも有賀さつきや富永美樹(いずれも元フジテレビ)、魚住りえ(元日本テレビ)、鈴木史朗(元TBS� �などと共演し、『たかじんONE MAN』ではフリーアナウンサーについて取り上げてフリーアナのゲスト(有賀・山中秀樹など)も出演している。また、逸見政孝(元フジテレビ)に関しては、自身の冠番組にて嫌う発言をしていたが、逸見の訃報を知り残念そうに語っていた。
明確に言えば、ブラックリストの掲載人物はたかじんのレギュラー番組にキャスティングされなくなるというだけであり、在京局の番組などで共演する事は皆無ではない。例えば、フジテレビ『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にたかじんが出演した時、徳光和夫(元日本テレビ)と共演している。ブラックリスト掲載者でも、たかじんがキャスティングを希望すれば(断られる場合もあるが)その回に限っては共演するのも不可能ではないようである。
逆に上記の事から、たかじんが共演したいタレントから拒否されて、たかじん自身が後悔する面がある。それと同時に、たかじんが批判したタレントが自分のファンだと知り、ショックを受ける事もある(例えば、桑田佳祐)。
[編集] NHK(公共放送)では絶対仕事をしない
歌手デビュー時のオーディションで、NHKへの悪口を連発した挙句に、NHK側のあまりに横柄な態度にたかじんが噛み付いたために不合格になったこと、NHK大阪放送局の『BK芸能チャンネル』での何らかの事件がありそれを皮切りに「役人・官僚体質」「中身のない番組を垂れ流して受信料を取る」「キ●ガイ集団」などの批判もあり、それゆえにNHKに対して異常なまでの憎悪を抱くことになる。実際、普段のレギュラー番組でも「腐ったヤクザな放送局」「アホの集まり」「さっさと潰れろ」「民営化しろ」「価値がない」などと非難したり、放送禁止用語を連発することも頻繁にある。東京キー局同様NHKのアナウンサーも前述のブラックリストに掲載させている。無論、現在・過去を問わず全員が掲載されているため、元NHKのアナウンサ� �との共演もたかじんは一切拒絶している(『ムハハnoたかじん』で共演した宮川俊二、大塚範一は例外といえる)。
「紅白歌合戦」に関しては年末年始に番組内で特大パネルを用いての批評が定番と化している(最近は減少傾向に至っており、援護をするようなコメントに傾向している)。NHK側も「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定している。一方、2009年・第60回の出場を最後に「後進に枠を譲りたい」との理由で紅白勇退を表明した布施明が、たかじんの紅白出場を推奨した。
2001年、NHK大阪ホールのこけら落しの歌番組『わが心の大阪メロディー』の出演を依頼されるも「誰が糞NHKなんかに出るか」と即座に断った唯一の人物でもあり、それを自慢話にしている。NHK受信料も払っていないと公言。ただ、同局の『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』、『芋たこなんきん』に対しては高く評価している。
自身の出演は拒絶しているが、自身の持ち歌を『NHKのど自慢』出場者が採り上げる事や、ラジオ番組でレコード演奏する事までは拒絶していない。
[編集] ABCでは絶対仕事をしない
在阪局であっても、ある件を機にABCでレギュラー番組を持つつもりはないという。これは『晴れ時々たかじん』の放送終了後の慰労パーティーにおいて(朝日新聞から天下りで来た)局長が、挨拶で「なぜこんな番組が視聴率を取るのかわからない」と発言したことから激怒し、以後、ABCでの仕事は死ぬまでしないと決めたからである。これ以降、たかじんの冠番組内でABCの話題になると「(ABCは)アホから順番に偉くなる放送局」など罵倒し、その後は数回出演する程度。2010年時点では2003年の『おやじと娘とたかじんとII』が最後。ABCがパート3の製作をたかじんに依頼したところ、「それならレギュラー番組に起用しろ!」と断ったというエピソードがある。
『晴れ時々たかじん』以前にも、ABCラジオの生放送中に「養命酒や、あんなもん何で効くねん。吐きそうなったわ」と発言し、後日養命酒製造から始末書を書かされたり、局の警備員の対応の悪さに腹を立て、ラジオの生放送中に当時の副社長に対し「ここ(ABC)の警備員の教育はどうなってんねん、だからアホから順番に偉くなるんちゃうか」と発言し、副社長を激怒させた事があった。結果として副社長はたかじんに対して永久出入り禁止処分を下すものの、その後たかじんが「(ABCの事)ボロクソ言うたら」と発言し、副社長も徹底抗戦しようとしたが、当時の社長・藤井桑正が「そんなことしたらタレントがおらんようになる」と鶴の一声でお咎め無しとなった。また『晴れ時々たかじん』開始当初視聴率が低迷し悩んでいたと� ��に、馴染みの鉄板焼屋で当時アナウンス部長の乾浩明と遭遇し「いやー、視聴率が全然上がりません。番組やめたほうがよろしいですかね?」と相談したら、乾から「そやそや君には荷が重すぎるんやで、早よ辞めた方が君のためやで」と言われたという。その言葉を聞いてたかじんは内心憤慨し「乾を見返してやる!」と奮起し、番組は高視聴率を獲得できたという(別に乾との仲が険悪というわけではなく、単に面白おかしく話しているだけ)。
しかし、他の在阪民放局と同様に、ABCでもたかじんが持つ影響力は大きく、親交のある元社長の西村嘉郎(現・常勤特別顧問)に直談判をし宮根誠司のフリー転身を決断させた。また、ABCの顧問を務める山内久司もたかじんの冠番組に出演した経験がある。元ABCアナウンサーで現在・監査役会事務局事務長の林伸一郎とは龍谷大学放送部で同期であり、現在も親交深く2003年4月頃『たかじんONE MAN』のコーナー「対面ショー」で局の垣根を越えて久々に共演した。たかじん本人も、制作畑の人間とは交流が深く、朝日新聞の天下り筋とそりが合わないだけだとも述べている。
[編集] ラジオ大阪の番組には出演したことがない
たかじんはなぜか在阪局であるラジオ大阪(OBC)でレギュラー番組を持った経験がなく、ゲスト出演もしたことがない。現時点でラジオ大阪でたかじんが出演した実績は、代役として出演した『オールナイトニッポン』がニッポン放送のネット受けで放送されたことがあるのみである。特にラジオ大阪を嫌っているわけではないが、出演経験がないため、たかじんはラジオ大阪の事を話すことは滅多にない。なお『たかじん胸いっぱい』では、元OBCアナウンサーの中井雅之と共演していた。なお、地方局に範囲を広げれば、ネット受けしたことがある放送局を含め、出演したことのない放送局は多数存在する(出演経験のある地方放送局は、RKB毎日放送、熊本県民テレビ、北海道文化放送など)。
[編集] 生放送番組には出演しない
1990年代まで生放送番組に出演していたが、毎日放送ラジオ『たかじん生JINJIN』以後は生放送のレギュラー番組がない。
『ムハハnoたかじん』では番組の性質上、で生放送を行った時期があり、『たかじんのそこまで言って委員会』が熊本地区で20%超の高視聴率を獲得したことを記念して、辛坊治郎(読売テレビ解説委員)と共に2007年7月9日にくまもと県民テレビのローカルワイド番組『テレビタミン』に生出演し、2008年4月10日放送の『なまみつ』に桂ざこばとともに番組中に乱入して出演した。同年8月、タカアンドトシの冠番組『タカアンドトシのどぉーだ!』(北海道文化放送の番組で『胸いっぱい』とは重複時間も発生する番組)にもゲスト出演している。 2011年開始の『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)がゴールデン進出に当り、10月22日に生放送で放映した。その後定期的に毎月一回第3週か第4週に生放送している(12月24日放送分のみスケジュール等の都合により収録)。
[編集] 能力を見抜く眼
大橋巨泉の様にまだブレイク前のタレントと芸人の才能を見抜く眼にすぐれていると評されている。
ABCのアナウンサーだった宮根誠司をフリーアナウンサーに転身させた事で知られる。横山たかし・ひろしはこれまで目立った活躍はなかったが、「たかし・ひろしは面白い」と絶賛したことから、たかじんの番組に呼ばれることが増えた。コンビニの雑誌の表紙を飾っていた、駆け出し当時(グラビアアイドルとして)のほしのあきを目に留め、後日即座に自身の番組にブッキング。その後ほしのが全国区でブレイクしたため、改めてゲストにブッキングすることが困難になってしまった(なお、ほしのは現在たかじんの番組にレギュラー出演している)。
一方で、たかじんが才能を見抜けなかった者として前述するように酷評した秋元康などがいる。
[編集] トラブルと事件
芸に厳しく短気な性格で、様々なトラブルが発生している。番組内での過激発言においては、裁判沙汰・警察沙汰になるケースも生じている。
この風貌で暴力・トラブル沙汰を話すため、威圧的な面を強調されるが、親交のある北野誠が語るところによるとシャイな性格であるという。
[編集] 大立ち回りの幻想
互いに駆け出しであった笑福亭鶴瓶と共に歩いていた所、ガラの悪い集団が二人に絡んできて、互いに目で合図を交わしたのを皮切りに乱闘へと発展。雄叫びと共にたかじん(と鶴瓶)が集団相手に襲いかかり見境無く殴打。たかじんが正気に戻った時に両足で立っていたのは、鶴瓶とたかじんの二人だけで周囲を見渡すと路上には倒れて呻き声をあげる集団が横たわっていた。
[編集] 読売新聞社員引き回し
新曲のキャンペーンで読売新聞大阪本社を訪れた際、取材記者が挨拶も無くアルバムを一瞥してテーブルに放り投げ開口一番「売れとるらしいな、で、なんや?」と訊ねる。記者のあまりの横柄さに激怒したたかじんは記者の髪の毛をつかんで引きずり回す事件を起こした[11]。
バレンタインデー嫌いにトップの理由
[編集] 味の素激昂事件
- 1992年12月、たかじんが司会をしていたテレビ朝日の深夜番組『M10』の料理コーナーで、たかじんが「こんにゃくサイコロステーキ」を調理中、隠し味にどうしても必要だった味の素が見つからず、番組スタッフや助手を務めていた服部栄養専門学校の生徒に「味の素はどこじゃー!!」と連呼したが誰も答えなかったため、アシスタントディレクター(後に小宮悦子と結婚した人物)を殴ったりスタジオのセットを破壊する出来事があった。その状況に慌てた共演のトミーズ雅が「仮に、味の素を入れたとしましょう」と軌道修正を図るフォローをしたが、「出来ん、味の素がないのに出来ない!」と調理を放棄し、最終的には「こんな腐った番組辞めたらぁ」と生本番中に帰った(後日、たかじんは別の番組で「ファックスで再三打ち� �わせしたにもかかわらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた」と話している。また、この出来事でたかじんは右手を骨折した)。
- 生番組中に「味の素」と連呼したことで味の素本社から1000本の味の素が送られて、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに置かれるという後日談も生まれた。この差し入れは同社からの善意によるものとされるが、激怒した原因は打ち合わせをしたにも関わらず制作スタッフの怠慢で進行に支障を来した事から「味の素が無かったから」とするのは本意ではなく「有るか無いかの問題では無く制作業務としての当然の通達が全く機能していなかった為である」と本人が吐露している。
- 後に番組内で、たかじんは「騒動を引き起こした責任を取って、番組を自ら降板する」と宣言したが、トミーズ雅から説得されて一旦は慰留を受け入れることを決意する。だが、バーのマスター役のたかじんとトミーズ雅が有名人を迎えてトークをする『M10』の番組構成は、既に関東地区以外で放送されていた読売テレビの『たかじんnoばぁ〜』と全く同じであったため、この事件で『自局制作の番組を模倣した番組』が関東ローカルで放送されていたことを知った読売テレビが、テレビ朝日と制作プロダクションのオフィス・トゥー・ワンに事情説明を求めるまでに発展したこともあって、翌年3月の期末改編を前に番組自体が打ち切られる。前後して『たかじんnoばぁ〜』は日本テレビで『M10』の裏番組として放送を開始、他局であり� ��がらメイン司会者が同じでセットや内容が酷似する番組が、一時的ではあるが関東地区で同時間帯に放送されていた。
同時に、彼の東京嫌いが決定的なものとなり、基本的にキー局や一部の地方局製作の番組に出演することは無くなった。そのため、現在でも『たかじんのそこまで言って委員会』や『たかじん胸いっぱい』などの冠番組の東京キー局や一部の地方局からの全国ネットの案件を門前払いし、徹底拒否している(前述の通り、TOKYO MXを除く関東の独立UHF局では放送を認めている)。
『たかじんTV非常事態宣言』の企画で味の素大阪支社を訪れた際、味の素の会社内でもこの事件が伝説として語り継がれていることを知る。
[編集] 名誉毀損裁判・勧告
- 2005年、関西テレビ『たかじん胸いっぱい』での発言で、杉田かおるの元夫鮎川純太への名誉毀損行為で人権委員会 (BPO) から人権侵害と認定され、最も重い「以後斯様な事のないよう、企画・編集の体制を整えるべきである」との勧告処分を受けている。
- 『たかじんONE MAN』2005年10月18日深夜放送分で、離婚した堀ちえみの元夫について「別れるときは大変やった。最高裁まで行った」「男が絶対別れへん言うた」などと発言したことで、2006年1月に元夫が、事実と違う発言により名誉を傷つけられたとして、たかじんと番組を放送した毎日放送に、計2200万円の損害賠償を求めて提訴した。12月22日、大阪地方裁判所で、たかじんと毎日放送に対し、「発言は公益性を欠く」などとして330万円の損害賠償を命じる判決が下され、たかじんは『判決には従います』と控訴しない意向を示した。2007年4月に総務省から厳重注意処分。
[編集] エピソード
[編集] 酒絡み
- 大相撲の大阪場所で数多くの幕内力士と飲みに行ったが、たかじんと飲みに行った力士全員が一人の例外もなく全員怪我で休場に追い込まれるという事態になり、日本相撲協会がたかじんに力士との接触の自粛要請をするという異例の事態に発展した。このことに自分の番組でネタにし「俺が何悪い事したんじゃ」とぼやいていた(過去に貴闘力を引き連れてはしご酒をしたこともある。また、暴走族をはしご酒に巻き込んだこともある)。
- 京都会館のコンサートで、ステージ上にはタバコと水割りを用意させ、水割りがなくなるとボーイが取りに行くというもので、そういう状況で当時全く無名でヒット曲が皆無であったたかじんは延々としゃべり続けた(1ネタ40分程度)。客席はホステスばかりで香水の匂いが相当きつかったという。半ばエンドレスの状況であったため、ついに演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、たかじんは京都会館を数年間出入り禁止になってしまった。
- 客引きに「暴力バーあるんやったら入ったるわ」と言い、大阪・梅田にある阪急東通商店街の暴力バーに入り、ビール小瓶2本を注文し、その勘定が6万円程度だったことに激怒し、「俺を舐めとんか?何やこの勘定は。お前とこ暴力バーやろ。1本15万は取れるはずやろが。暴力バーが生半可なことすんなドアホ!!」と一喝した上で説教を始め、最後にビール小瓶2本分に相当する30万円払って帰った。金を払って帰る際に店の奥から若い連中が出てきて「兄貴ありがとうございます」と言った。この事は過去に『たかじんONE MAN』でたかじん本人が言っている。
- 東京・赤坂で暴力団の人間数人に「たかじん、お前ただ酒飲めてええのう」と言われ、これに激怒したたかじんはその暴力団の男をハシゴ酒に同行させたところ、暴力団の男たちは数軒目でたかじんの目を盗んで逃げ出した。その店のホステスに「たかじんはわしらよりタチが悪い」と言っていたという。
- 月亭八光の初の冠番組『なまみつ』(毎日放送テレビの生放送)の第1回放送分(2008年4月10日)に、桂ざこばと自分をその収録場所まで乗せてきたタクシー運転手と共に、ウイスキーの水割りを片手に乱入。出演者は全員顔見知りであり、ゲストの藤山直美とのキスから始まり、井岡弘樹や八光を罵倒し、八光の司会を遮って大暴れする。その後は八光に進行させるため、画面からたかじんとざこばは消えたが、比較的近くにいたようで2人の喋り声は後方から時折聞こえていた。たかじんが番組が地味と判断して盛り上げようとしたネタなのか、番組側の台本なのかは不明。なお、この番組は視聴率低迷のため半年で終了し、ロケ企画中心の『ロケみつ』へと衣替えしており、司会こそ八光が続投という形を取ってはいるものの、番組内 の旅ロケ企画である桜 稲垣早希のブログ旅シリーズが注目を浴びたことで人気番組となり、現在に至っている。
[編集] 音楽関係絡み
- 愛用楽器は「MARTIN D-41」(アコースティックギター)である。愛用している指し棒は「KAIMEI POINTER」。
- 1980年代、まだ留守番電話が普及していない頃に高価な機材(15万円位するヤマハのポーターサウンド)を買い(大阪で売っていなかったためわざわざ名古屋まで買いに行ったという)、自作のメッセージを作っていた。自作メッセージには朝用・昼用・夜用とあり、夜用は映画『ジョーズ』のテーマ曲を使用していた。しかし、メッセージを変えるため朝・昼・夜と自宅に帰らなければならず、「こんなもんやってられへん」とやめてしまった。
- 1987年に徳島文化センターでコンサートを行った際、演奏に入る前に「お客さん、今から歌いますけどその後の話はとっておきの大ネタですから聞き逃したら一生後悔しまっせ。トイレ行くなら歌の間に行ってください」とたかじん本人は冗談のつもりで言ったが、いざ5曲目の『My Friend』の演奏が始まると、一斉に観客が立ってトイレに行きだしたという逸話がある(コンサートを観ていた大阪遠征組のファンはこの観客に対して激怒したという)。
- プリンスホテルのディナーショーで従来通りのディナーショーしか出来ないという理由でキャンセルするも、ホテル側が違約金600万を要求した。これにたかじんが「上等やないか」とホテルに乗り込み「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」と札束を投げ出し帰った。これにホテル側が慌て対応策を出し、かろうじてディナーショーを開催することができた(他にも今は無きホテルプラザでボーイの態度が気に入らないとの理由でディナーショーをキャンセルしたことがある)。
- 北新地の本通りでストリートライブを見ていたたかじんが「下手じゃ」とストリートミュージシャンを殴り、ギターを取り上げ、ストリートライブを始めだした。それからしばらくして、偶然金村義明が通りかかったのを見つけると「金村こっち来んかい」と呼びつけ、「お前も金を出せ」と1万円を出させた。その後たかじんと金村でたかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』のサビの部分を10分ほど延々と歌っていた(たかじんが泥酔していたためサビの部分しか思い出せなかったという)。最終的にチップが20万円くらい集まり、そのストリートミュージシャンに全額渡して帰っていった。
- レギュラーラジオ番組であった『ハローナショナルショールーム』(MBSラジオ)にゲストとしてECHOESがプロモーションで出演した際、ボーカルである辻仁成の横柄な態度(番組に出演しておきながら質問されても無視し、何を聞かれても「CDを買ってもらえればわかりますよ」としか答えないなど、全くやる気のない受け答え)に、番組が進行しなくなってしまい、最初下手に出ていたたかじんと出演者であった泰葉がついに激怒。泰葉がたかじんに「やっちゃいな!」と言い放ち、たかじんは録音を止めさせて、「そんなんやったらわざわざここへ来んと、CDだけ売っとったらええやろう!」と譜面台を投げつけ一喝、会場は騒然となった。が、観客はむしろ拍手で応えたという。 泰葉は番組収録後、たかじんに感謝の意を伝えた。� �来、たかじんと辻は犬猿の仲である。後に語ったたかじんの言い分は「しゃべんの嫌やったらFMに出え!ここはAMじゃ!」というもの。
- 2003年に『たかじんONE MAN』の「たかじんのザ・ご対面ショー」というコーナーに尾崎亜美が出演した際「僕はもう、尾崎亜美しか歌わない」とまで豪語していたが、やはりたかじんのこだわりの強さからか気に入った作品がなく、結局断った。
- 2009年10月26日の京都会館第1ホールでのコンサートで、8曲目の「なめとんか」を歌い終わり、喋り始めるや否や舞台下手から転落し、肋骨3本を骨折、膝を強打し、血と水が溜まる重傷を負った。そのことがよっぽど悔しかったのか、同年12月14日に同会館で追加公演を行った。2002年11月8日での同会館でも、細木数子ネタを熱演中に舞台から転落している(しかも、過去に転落したことを喋っている最中に転落した)。
- 過去では、和歌山のコンサートで初めて転落したのを機に、神戸のディナーショーなどで転落している。
[編集] テレビ・インターネット絡み
- 休みの日は朝から晩までHDDに撮った録画したテレビ番組を鑑賞し、テレビ局の作る番組の動向をチェックしているという。
- 大阪・八尾市にある旭食品が製造している「旭ポンズ」をテレビ・ラジオで絶賛したことがきっかけで、関西で大ヒット商品となり、たかじんが火付け役となって多くの著名人にも愛用されるようになった。他にも、通販の商品などたかじんが取り上げた商品はすべて注文が殺到し生産が追いつかない事態になっている。
- ネットショッピングに関するブログを持っており、2006年6月12日の『たかじんONEMAN』の番組内で以前、雪江ハム(本社・千葉県千葉市)に本名の家鋪隆仁名義で注文を出したところ、たかじんからの注文であることを解読され、察知された。
- たかじんが番組中に激怒することがよくあると同時に、たかじんの発言に対し、共演者(特にゲスト)が口論となった末、本番中に帰ってしまうこともよくある。
- スポーツ中継が嫌いであるが、かつての南海ホークスのファンであり、野球中継には数年に一度は登場する。たかじんは常に、「巨人戦中心のテレビ中継をすべきでない」など、在京局のプロ野球中継にやり方を批判している。たかじんの趣味の1つであるゴルフ番組にも登場することがある。また、かつては馬主でもあった。たかじんは他にバレーボールなどで応援するアイドルを起用することに対して、「東京のテレビ局や一部の地方局は、アイドルに無駄な仕事をやらせる」などと不満を述べることが多い。
- 『たかじんのそこまで言って委員会』が熊本地区で20%超の高視聴率を獲得したことを記念して、辛坊治郎(読売テレビ解説委員)と共に2007年7月9日にくまもと県民テレビのローカルワイド番組『テレビタミン』に生出演した際、視聴者が電話参加するプレゼントクイズで賞品を逃した参加者に「1万円札にサインして送る」と宣言し、司会の本橋馨、村上美香両アナや参加者の「本当にいいんですか?」という疑問に「ええの、ええのよ!」と即答し、視聴者に対するサービス精神の旺盛さが垣間見られた。
- 2008年7月21日の読売テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』に仕事復帰したばかりの親友の歌手・松山千春との単独インタビューのインタビュアーを務めた。たかじん自身にとっては2004年12月に放送された『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜2時間SP』(フジテレビ)以来、全国ネットの番組出演は3年半振りである。VTRだったとはいえ、東京・日本テレビでも流れている番組に出演することは異例のこと(この日は特別編成のため1時間の短縮版だったため、放送する時間帯が必然的に14時台の全国枠しかなかった)。日本テレビでも流れているためか、普段よりは大人しかった。また、たかじんを紹介する資料映像も現在の人気番組である『たかじんのそこまで言って委員会』の映像は使われず[12]、日本テレビでも放送されていた『たかじんnoばぁ〜(レギュラー放送版ではなく、前日7月20日に読売テレビローカルで放送された復活版第2弾)』の映像が使われた。その直後の8月2日深夜に『たかじんnoばぁ〜』復活版第2弾が日本テレビで遅れ放送された。2004年ごろに放送された『ウチくる!?』(フジテレビ)で田嶋陽子がゲスト出演の際に、田嶋の親しい友人の一人として「メルくる」でVTRにてコメント出演したことがある。
- ※後日、2008年8月30日放送『ズームイン!!サタデー』のコーナー「モッチーのよくばりエンタ」にて「やしきたかじんPRESENTS koi-con」で松山千春復活熱唱の記事をVTRにて紹介され、たかじんの姿が数秒映った。
- 2009年7月11日放送の『たかじん胸いっぱい』で有吉弘行に「奇跡のチンピラ」とあだ名をつけられた。
- 2009年10月12日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』において、6日に行われた自身の還暦パーティーの模様が流れた。会場には鳩山由紀夫総理大臣や安倍晋三元総理大臣、原口一博総務大臣から花が届けられていた(3名共『たかじんのそこまで言って委員会』に出演したことがある。特に原口は国会議員の中では準レギュラー格であった)。
- 2009年12月18日放送の『情報ライブ ミヤネ屋』において、芸能人のディナーショーが特集で放送され、2位の五木ひろしの1人50,000円より500円高い1人50,500円で1位と紹介された。
- 2011年11月26日放送のフジテレビ系列『めちゃ×2イケてるッ! 』2時間SP内のコーナー「やべっち寿司」に出演した。全国ネットの番組出演は約3年振り、東京での収録は約7年振りである。また、収録時間は1時間10分(実際の放送は10分28秒)。この2時間SP中に関東・関西ともに瞬間最高視聴率を記録したのは、たかじんが出演した部分であった。
[編集] 競馬絡み
- 『たかじんNOマネー』2011年9月3日放送分(テレビ大阪)によると、ギャンブル類は競馬のみハマった、と語っている。
- ある日、構成作家が番組の打ち合わせでたかじんの家に来ていたとき、その日がたまたま土曜日であった。打ち合わせ中、競馬中継を観ながら構成作家が「このレース、●●(馬名)で鉄板」というのを聞いて、たかじんは「『鉄板』ってなんですの?」と聞き返した。その馬が1着になれば単勝オッズ2.0倍だから2倍になって返ってくる、ということを聞かされ、その馬の単勝式馬券に100万円を投じたのが、競馬との関わりのきっかけ。
- ちなみにそのレース、鉄板だったその馬は勝てず、100万円は一瞬で消えた。
- JRAの馬主登録をしており、2009年の秋華賞を勝ったレッドディザイアの母グレイトサンライズをたかじんが所有していた。しかし、2006年以降は個人で競走馬を所有していない。
- 本人のコンサートや、上記『たかじんNOマネー』や『たかじん胸いっぱい』等で語ったところによると、これまでに10頭もの馬を保有し、その中には下記に掲げるような4頭の個性的な「バカ馬」を保有したという。
- 1頭目は、2,500万円を投じて購入したものの、極端な閉所恐怖症で、ゲート試験に合格できず競走馬デビューすらできなかった。
- 2頭目は、非常に負けん気の強い馬だったが、デビュー戦でレース中逃げて先頭を走っているとき、後方から追い込んできた馬に噛み付くほど負けん気が強かった。
- 3頭目は、虚弱体質であった。
- 4頭目は、「自分の目で確かめなアカン」と思い、わざわざ北海道まで血統を頼りに買い付けに行き、ゴッドファーザーからドンコルレオーネと名付けた。だが、中央では全く勝てなかったためイヤになり、「地方に転籍させましょうか?」と言った周りの意見に耳を貸さず「もうエエから、誰かにやってくれ」とあげてしまった。その後、ドンコルレオーネは園田へ転籍し10連勝を飾ったという。
[編集] 96">その他
- ヘビースモーカーで、1日60本も吸っていたようである。銘柄はピース・スーパーライト・ボックス。喫煙による肺気胸の症状も患っている。医師から「煙草を止めなければ死にますよ」と禁煙を勧められ、2008年11月から電子たばこにしているが、現在でも喫煙はしている。
- 趣味であるゴルフをすることもあり、ハワイや熊本でワンラウンドプレーした様子がテレビで放送されたことがある。ゴルフのベストスコアは80であると番組内で発言した。Hawaiiでは、ハーフ39とホールイン・ワンを記録している。
- 桃山学院高校では新聞部の部長を務めたが、多くのいざこざから自らの手で新聞部を廃部にした。その経緯から、同校の卒業名簿の著名な卒業生一覧から「やしきたかじん」の名は抹消されている。文化祭にたかじんをゲストとして招聘する案が学生からたびたび出るが、教職員の猛烈な反対で頓挫している。なお、桃山学院高校の新聞部は現在も廃部の状態である。
- 元・南海ホークスの熱狂的なファンで、ホークス関係で取材を受けたり、ホークスがダイエーに身売りされる際も反対の署名に参加しており、南海ホークスにまつわるレコード「南海ファンやもん」(歌:アンタチャブル)をプロデュースする。ダイエーに身売りされてからはファンをやめている。子供の頃は、「ジュニアホークス」に所属していた。
- 『たかじんONE MAN』で2003年の長者番付(関西版)にてTOP10に入っていたとき、「長者番付けでTOP10入ったろ思て、去年(2002年)本気で歌やったんや」と言っていた。
- 昔大阪キタで一世を風靡した『バナナの気持ちはよくわかる(ニューハーフショウパブ)』の名付け親及び総合プロデュース、構成作家をやっていた(『たかじん胸いっぱい』2007年10月放送分にて発言)。
- 2008年から松山千春との縁による札幌市と大阪市の両方で生活している。番組中でも、札幌での生活ぶり(大半はすすきの界隈の話)を話す機会が多い。また、気に入っている芸人の1人であるタカアンドトシの冠番組『タカアンドトシのどぉーだ!』(北海道文化放送の番組で、『胸いっぱい』とは重複時間も発生する番組)にもゲスト出演している。『たかじんTV非常事態宣言』を札幌テレビで収録したこともある。
- 最近では北川景子のファンであり、『たかじんTV非常事態宣言』などで語った事がある。過去には、安井ゆたか、吉川十和子、安めぐみ、長澤まさみ、井上真央の事も気に入っていた時期があり、自身の冠番組でも語っていた。
- 2008年12月18日頃に、新地で大暴れして右手でワイングラスを握りつぶし、15針を縫う大ケガをした。たかじんは「(握りつぶした時に)筋肉を越えて骨まで行っとった。」らしい。
- 2月7日放送分の「たかじん胸いっぱい」にて、自ら映画監督としてデビューが決定したと番組内で報告があった。
- 2009年4月5日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、中華料理が嫌いである事を告白していて、大学生の頃までラーメンや餃子等食べた事が無かったと述べた。
- 過去に福岡県などにある博多ラーメン「一蘭」福岡天神店入口横には、過去に来店した芸能人やタレントのサインがあるが、一蘭の接客システム(客と店員の間に暖簾があり顔を確認できない)のため気づかずに、サインをもらえなかった有名人の一覧に「やしきたかじん」の名前がある。
- 上岡龍太郎などを除き、たかじん同様に「物事をはっきりという性格」のタレントとの交友が少ない。代表例として山城新伍や和田アキ子らが挙げられ、山城に至っては「山城は嫌いや!」と公言する程であり、山城死去後の「委員会」で、本人を扱き下ろす発言をしていた(山城はたかじんを評価しており、共演を望んでいたがしばらく拒否されていた)。また、和田はローカル番組にほとんど出演しないため、東京嫌いであるたかじんとの共演が難しいからだと思われる。いわゆる、自分が「喋れなくなる事」を嫌っている可能性も高い。なお、島田紳助や明石家さんまなど、たかじんと山城、和田と交友を持つタレントは多く存在する(和田も山城と親交があった)。たかじんは一度だけ番宣で『アッコにおまかせ!』に出演した事� ��ある(東京でたかじんの知名度が低い事に愕然としていた)。
- 『たかじんNOマネー』2011年9月3日放送分(テレビ大阪)によると、2000年頃に自身をモチーフにしたパチンコ台を出したいというオファーがあったらしい。ギャラは4,000万円(買い取り契約で、売り上げ増によるインセンティブはなし)を提示されたという。ゲーム内容は、リーチ中にたかじんが指し棒で図柄をバンバン叩く…などといったものであったそうだが、「『濡れ手で粟』のように仕事と関係ないところで稼いだ金には納得いかない」と思い、最終的にはOKを出さずお流れとなった。
[編集] 現在の出演番組
自らが司会を務めるようになってから、『晴れ時々たかじん』以後は番組の打ち切りは放送局が決めるのではなく、自らが「辞める」と言って終了すると公言している。しかし、様々な事情が絡み合い「辞めたくても辞められない」と発言することもある。また『そこまで言って委員会』は、三宅久之が亡くなった時点で番組終了と公言している。
現在放送中の上記レギュラー番組がすべて視聴できる地域は北海道(一部地域を除く)、中京広域圏(岐阜県は一部地域を除く)、近畿広域圏(京都府・兵庫県はそれぞれ一部地域を除く)、広島県、富山県[16]となっている。
[編集] 過去の出演番組(ゲスト出演も含む)
[編集] テレビ
- 在阪局(全国ネット枠を含む)
[編集] ラジオ
[編集] ディスコグラフィ
[編集] 代表曲
- 明日になれば
- あんた - たかじんと前妻との想いをベースに作られており、たかじんの最も思い入れのある曲のひとつである。レコーディング中は何度も泣き崩れてなかなか歌えなかった。前妻が急死してすぐのコンサートではこの曲を歌っている最中に泣き崩れて立ち上がれずに歌えなかった。1994年のシアタードラマシティのコンサートのラストで歌って以来封印されており、次に歌うのは最後のコンサートのラストの曲とまで言い切っている。
- やっぱ好きやねん - 東京の人間である作家の鹿紋太郎が、大阪の文化が大好きで作った曲である。たかじんはデモテープを聴いたとき不自然な関西弁に違和感を覚えたという。「やっぱ」は関東弁で、関西弁で正式には「やっぱし好きやねん」である。しかし、「歌詞がメロディーにのらないこと」と、「女性の一途な気持ちややり切れなさを歌いたいのであって、関西弁の歌を歌うのが目標ではない」ということで最終的にたかじんが関西関東合同弁でいこうと決めたという。
- ICHIZU - 最初は「ナニワ・トワイライト」というタイトルであったが、たかじんが「今回は関西色を避けたい」「ナニワ・トワイライトでは売れそうなタイトルではない」と鹿に全面的に歌詞の変更を要求し完成した。
- 未練〜STILL〜
- 大阪恋物語-たかじんのコンサートで本編のラストで歌われることが多い定番曲。1988年の春のコンサートで初めて披露された(編曲はバンドマスターの土井淳)。その当時のタイトルは「OSAKA恋物語」であった(1988年8月13.14日のホテルプラザでのディナーショーのプレゼントに1988年6月17日の大阪厚生年金会館大ホールでのコンサートで「OSAKA恋物語」が収録されたカセットテープが配布されている)。その後、1989年4月21日にリリースされたアルバム「The Vocal」に収録されている(編曲は若草恵)のみで、シングルのリリースはない(販促用シングルは除く)。
- なめとんか - たかじんが鹿に「いつもついていく女ばかりやから、開き直る女の立場で歌を作ってくれへんかなぁ」とリクエストしてできた曲である。しかし、この歌詞があまりに強烈であったため、鹿がこれ以上インパクトのある歌詞を書けずスランプに陥り、「もうこれ以上書けません。許してください」とたかじんに言ったという。この曲以降、たかじんは鹿の作品を歌うことはなくなった。
- 泣いてもいいか
- 東京 - コンサートの地名によってサビの歌詞の「東京」を地名に変えるのがこの歌の特長。
- さよならが言えるまで
- My memory
[編集] シングル
カセットシングルについては省略
[編集] アルバム
[編集] オリジナルアルバム
[編集] 主なベストアルバム
[編集] ライブアルバム
[編集] その他CD/レコード・出版物等
- 鳳 蘭「肖像画」(宝塚ミラーボール実況録音)たかじんがゲスト出演したライブの実況版。ベルウッド・レコードのご好意により全曲収録。
- 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち
- 南海ファンやもん(プロデュース)
- くるダス
- 雀々十八番 上巻(特典ディスクに収録されている「たかじん&円の音曲漫才」に出演)
[編集] 仲の良い人物
- 星野仙一(『たかじんONE MAN』でトークするなど、親交がある)
- 藤山直美 - 過去には女性誌に結婚以上の仲であると報道されたことがある。特番等での共演も多く、プライベートでも12時間以上の長電話をしたり、電話口で10曲以上も歌うなど、現在でもふたりの相性が抜群によいことが伺われる。NHKが大嫌いなたかじんも、藤山が出演する連続ドラマ『芋たこなんきん』については自身の番組で「どうぞよろしくお願いします」と(観覧客に向かって)言っていたが、「芋ブタなんきん」(←藤山の体格が良いことから)と本人の前でネタにもしていた(テレビ大阪の特番『たかじんプロデュース』にて)。また、藤山が関西テレビ『ムハハnoたかじん』2007年4月13日放送分でゲスト出演した際、たかじんと夫婦コントを演じた。
- 松山千春(『たかじんONE MAN』に出演したことがある他、たかじんのコンサートなどで共演している)
- 細木数子(『幸せって何だっけ〜カズカズの宝話〜』で強引にたかじんを共演させたことは有名である)
- 藤田まこと(2010年2月逝去)
- 桂三枝
- 堀内孝雄 - 桃山学院高校時代の同級生。かつて同じ事務所に所属し、現在もたかじんのライブなどにゲスト参加する事もある旧知の仲。また、20代後半の頃、東京・ニッポン放送の廊下で再会した際「いまアリスやってるねん」と近況を話した堀内に対して、まさか同級生が当時売り出し中のグループのメンバーであるとは思いもしなかったたかじんは、堀内がアダルト向け書籍のアリス出版で働いているものと勘違いし「お前ええ歳してもう少し真面目な仕事せんかぁ!!」と説教をした。
- 桂ざこば - プライベートで親交があり、現在でも最高の親友であるが、一時期不仲になった時期があった。ざこばが当時・朝丸だった頃、サンケイホールで行われる予定だった2代目桂ざこば襲名記念講演が中止となり、たかじんがその日のABCラジオで「サンケイをケツ割った」と発言してネタにした。後日、たかじんが当時司会を務めた『ナイトinナイト』水曜で「桂ざこば襲名記念特番」でゲスト出演したざこばが無口だったので、たかじんが「プロやったらしゃべれ」と一喝し、ざこばが「プロやからしゃべらんのや」と激怒し、収録中にもかかわらず帰ってしまった(2011年6月25日の『そこまで言って委員会』増刊号より)。この件で暫く不仲になったが、『たかじんnoばぁ〜』での共演で和解し、再び親しい仲となり現在に至っている。
- 桂南光(「晴れときどきたかじん」の後継者として南光を指名。一晩中かけて口説き落とした)
- 桂雀々
- 笑福亭鶴瓶 - 祇園の弾き語り時代、金がなく食べ物を求め2人で四条河原町をさまよっていた。ホームレスに不二家の店の前にあるゴミ箱にあったシュークリームを分けてもらおうと、ジャンケンでたかじんが行くことになったのだが、ホームレスに無視され続け、最後には「兄ちゃん、素人が食ったら腹壊すで」と言われ断られたという(2007年11月5日の『そこまで言って委員会』でも語っていた)。また、2010年5月1日放送の『たかじん胸いっぱい』では、41年位の付き合いになると語っている。
- 島田紳助(全国ネットの番組では、『なんでも鑑定団』などで共演している)
- 明石家さんま(全国ネットの番組では、『恋のから騒ぎ』、『さんまのまんま』などで共演している)
- 赤井英和
- 大平サブロー
- オール阪神・巨人(コンビ結成30周年のNGKイベントに出演)
- ビートたけし
- 上岡龍太郎(たかじんに影響を与えた人物の一人)
- 円広志
- 掛布雅之
- 板東英二
- 加藤みどり
- 杉田かおる(番組内の発言で、厳重注意を受けたこともある)
- 金村義明
- 井岡弘樹
- 岩本勉
- 徳山昌守
- ほんこん
- 千原せいじ
- メッセンジャーあいはら
- シャンプーハット
- とろサーモン
- 秋元康
- 桑名正博
- リリアン
- 三宅久之
- 橋下徹(第19代大阪市長、第17代大阪府知事) - 番組で共演。大阪府知事選に当選した橋下と関わりのある人物としてたかじんの名前や過去の映像、番組名を在京のニュース・ワイドショーが頻繁に取り上げるようになってきている。 ただし、在京キー局にてたかじん自身の姿が放送される時は、たかじんの発言が大幅にカットされる事が多い。
- 平松邦夫(第18代大阪市長) - MBSラジオでパーソナリティをしていた際知り合いになった。橋下より数ヶ月先に大阪市長となったため、知り合いが大阪の二大トップになってしまったのは信じられないと自身の番組内で語っている。橋下と平松がトップ会談をするきっかけを作ったのはたかじんの番組『ムハハnoたかじん』である。時折非公式会談をたかじん宅で行なうことがある(ただし、たかじんはあくまで場所を提供しただけであって会談に口は一切挟んでいないと『そこまで言って委員会』2008年6月1日放送分で語っている)。
- 勝谷誠彦
- 宮崎哲弥
- 角淳一
- 宮根誠司 - 番組で共演。『情報ライブ ミヤネ屋』でたかじんの話題を取り上げる事がある。
- 梅田淳
- 北野誠 - 北野とは長きにわたる親交があり、2009年からの謹慎後、北野を自身の番組で復帰させることを公言。実際に『たかじん胸いっぱい』2010年2月27日放送分で復帰後初出演を果たしている。
- 佐々木恭介
- 泰葉 - 1980年代半ば以降、MBSラジオ『ウィークエンド・イングス』『ハローナショナルショールーム』の共演を縁に親交を深める。当時、根岸の実家に頻繁に出入りした事もあった。そのためか、母・海老名香葉子から林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)を預かってくれるように懇願される。その後、しばらくこぶ平はたかじん宅に住み込み、かばん持ちをしていたが、実質たかじんの弟子入りのような形になった。以前ウィキペディアに「たかじんと泰葉は結婚寸前の仲までに発展した」という記述があったことについて、たかじん本人は自らが主筆の発禁!?たかじん新聞のコラムで「根も葉もないデタラメだ」と記述している。
[編集] 関連項目
- 林伸一郎 - 元朝日放送アナウンサーで、龍谷大学放送部の同期。学生運動のときに放送部を守るためにたかじんが放送部員全員に結束を呼びかけたが、実際集まった部員はたかじんと林だけであったため計画を断念した。発売禁止になった幻のデビュー曲『娼婦和子』を最初に購入した。
- 山口智充(DonDokoDon) - 現在の全国放送で、たかじんのモノマネをやり続けている一人であり、そのモノマネで、陽気な表情を貫いて批判的な発言を一切しなかったり、東京、NHKを好む様な発言を連発しているが、たかじんは承知している。
- はなわ - 持ち歌の『佐賀県』という曲の中で、「大阪といえば、やしきたかじんの大阪」と歌っている。また『大阪府』という曲でも「ベッカムよりもやしきたかじん」と歌っている。
- チュートリアル - 家鋪家の墓の隣には「徳井家」の墓があるが、それは徳井の所であることが最近判明してお互いびっくりしたという( 『たかじんのそこまで言って委員会』2007年5月6日放送分より)。
- ケロロ軍曹 - ケロロの関西人のコスプレは「やしきたかじん」がモデル。
- 大阪維新の会 - 2008年大阪府知事選挙、2011年大阪市長選挙、2011年大阪府知事選挙で橋下徹が当選した際、鯛を送った。
[編集] 外部リンク
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